【愛知】信長から家康へ!戦国ロマン、大河ドラマでも話題の小牧山城
戦国時代の中でも天下人同士が戦ったのは、徳川家康と豊臣秀吉が直接対決した小牧長久手の戦いだけです。
徳川家康が拠点にしたのが、尾張の国、現在の愛知県小牧市にある小牧山城でした。近年の調査によって当時の姿が浮かび上がってきました。この記事では、大河ドラマでも話題の徳川家康と織田信長の城・小牧山城をご紹介します。
信長から家康へ。戦国ロマンの小牧山城
安土城の原型となった小牧山城
小牧山は濃尾平野のほぼ中央にあり、ここだけ土を落としたようにこんもりとした山があります。
電車では名鉄小牧線「小牧駅」から西へ1.9km、またはバスがあります。駐車場もあります。
織田信長ははじめ清州城、次に小牧山城、さらに岐阜城へと移りました。清州城にいるときからよく小牧山へ鷹狩に出かけていて、同行していた木下藤吉郎、つまりのちの豊臣秀吉の提案もあって小牧山城を作ったとも言われています。
お城の作り方は、かつて織田信長が1576年に築いた安土城で一変したと考えられていました。 絢爛豪華な天守がそびえ、豪壮な高石垣で囲まれた、いわゆる近世城郭の誕生です。城は土づくりから石垣づくりへと改良され、戦闘施設だった城は政治的機能も兼ねた権威の象徴へと変貌。現在イメージされている一般的な城の第1号は安土城であり、安土城こそ信長の城革命のデビュー作と語られてきたのです。
ところが近年、その定説が大きく覆りました。安土城に先行して1567年から9年間居城としていた岐阜城、さらにそれ以前の1563〜1566年に居城としていた小牧山城で、 新しい城づくりに着手 していた可能性が濃厚になったのです。信長の革命は、安土城築城12年前の小牧山城で幕を開けていました。
家康も拠点にした城
小牧山城は、大河ドラマでも描かれていたとおり1584年の 小牧 ・長久手の戦いで徳川家康が本陣を置いた城 です。そのため家康により改修され、 信長時代の遺構は残っていないとされてきました。ところが発掘調査によって、 当時30歳の信長が築いた小牧山城が見えてきました。家康による小牧山城の地下には、 信長の夢と野望 が散りばめられた城が眠っていたのです。
最大の見どころ!発見された2段の石垣
2013年度、小牧市文化財課による北西斜面を取り巻く上下2段の 石垣の発見 は、 センセーショナルなニュースとなりました。信長の石垣づくりの城への移行が、小牧山城築城時まで遡る可能性が証明されたからです。
まだ高く積む技術がないためか、低い石垣が2段、並行するように積まれていました。上段は25〜38m、下段は推定12〜15mの高さ。積むことで、下から見たときに高く見えるように工夫したようです。見つかったのは基底部付近の2〜3段だけですが、さらに3〜4段積まれていたと思われます。下段の石材をみると、大きいものが中心なのも特徴です。
さらに翌年には3段目の石垣も発見されました。北〜北東斜面のほか、下段の曲輪でも確認されました。幾重もの石垣に囲まれた最先端の城の姿が浮かびました。 これらが信長時代の石垣といえるのは、 積み方の技術 が根拠です。 歴史的に考えると、小牧山城が使われた時期は信長が在城した1563~1566年と、小牧・長久手の戦いがあった1584年の2つの時期だけ、2段目の石垣の隅角部は算木積みでないため、算木積みの技術を習得していない信長時代の職人によるものとするのが妥当です。また、今のところ家康による石垣を用いた改修は確認されていません。
石材も検証の材料です。石材の一部は、小牧山城の北東にある岩崎山から運んだと思われる花崗岩で、岩崎山は小牧・長久手の戦いの際に敵方の羽柴秀吉が砦とした場所ですから、敵の陣地から石材を調達するのは不可能で、つまり 信長時代の石垣 と考えられます
さらに、大手道が主郭に接する部分の通路で、岩盤を高さ3mまで削り込み、石垣と組み合わされるという構造が判明したのです。屈曲する通路に石垣が連なる、圧倒的なプランが浮かび上がりました。
以前から安土城大手道との類似性が指摘されていた大手道は、小牧山城南麓からまっすぐにのび、築城時には5.4m であったことが判明。 小牧・長久手の戦いの際には、この大手道を家康が埋め立て、土を互い違いにして屈曲した大手道へと改修していたことも明らかになりました。
所在地、拝観料などの情報は公式ウェブサイト等をご確認ください。
登りやすい小牧山
小牧山の周辺は小牧市役所や図書館、大型スーパーなどがあり、小牧山城の資料館「れきしるこまき」という施設もありますので、400年前の築城や小牧長久手の戦いの様子などを知ることができます。
また緩やかな登山道で15分程度で登れてしまいますので、ぜひ訪れてみてください。
やってみよっか?