紀の国探訪記(後編)万葉の世界から幕末までタイムスリップ!
(前編の続き)
紀三井寺の新仏殿から遠くを見やると、はるか和歌湾が望めました。無謀にも、スマホも持たずに(持ちたくてもガラケーしか持っていない)歩いていくことにしました。
なんとなくあっちの方だろうと歩いていると、いろいろ面白いスポットを見つけることができました。万葉集の時代から幕末まで、紀伊国にはいろいろなことがあったようです。
紀の国探訪記の前編はこちら
江戸時代の石橋
紀三井寺からだいたいの方角を頭にインプットし、和歌湾に向かって歩き始めました。その途中で興味深いものやスポットを見かけました。
みかんが安すぎ!?
和歌山県には江戸は元禄期の伝説の商人、紀伊国屋文左衛門の伝承が残されています。当時、和歌山にはたくさんのみかんが成っており、江戸では高値で売れるものの、大阪の承認に安く買い叩かれていました。
文左衛門はこの点に着目し、江戸へ直接みかんを回航することに成功。巨万の富を得て「紀文(きぶん)」とか「紀文大尽」などといわれるようになりました。
「高校の時、日本史の授業でそんなことを習ったな」と思いだしたのは、路傍でみかんが投げ売り(?)されていたからです。この量で300円は安すぎないか?買って帰りたかったのですが、東京までもっていくのは大変なので諦めました。
海の「う」の字も見えてきません
てくてく歩き続けるものの、なかなか海は見えてきません。紀三井寺から見た時はそれほど遠くみえなかったのですが、後から調べてみたら、今回歩いた海岸線まで7キロメートルほどありました。
途中で来た道を振り返ると、はるか後方に紀三井寺がそびえたっています。ま、歩くしかないので(ここがどこかも分からないし)気を取り直して歩を進めます。
不老橋に着きました
紀三井寺からあっちへふらふら、こっちへふらふらしながら(酔っぱらっているわけではありません、ただ道が分からないだけです)40分ほどすると、姿のいいアーチ状の橋が見えてきました。
説明をみてみるとこの橋は「不老橋(ふろうばし)」と言い、江戸時代も末期の1851年に完成したということです。市の重要文化財にも認定されている、薄く強い見た目の橋でした。
妹背山を登る
不老橋からしばらく歩くと、内海に浮かぶ小さな島が見えてきました。この島は妹背山(いもせやま)と呼ばれており、ハイキング感覚で登ることができます。山頂からはキレイな景色が楽しめました。
やっと和歌湾に到着
歩き続けること1時間とちょっと、ようやく和歌湾に到着しました。砂浜や奇岩があり、なかなか景色のいい場所です。
転々と落ちている謎の物体
この日の和歌湾は波も穏やかで、水が透き通っており、波打ち際を散歩するのも楽しいものです…が、何やら黒者が点々と落ちていることに気づきます。
どうも、犬を散歩している方が、お土産を残していくらしく、せっかくの散歩気分が少し損なわれてしまいました。
お台場?
相変わらずふらふらとあっちこっち歩いていると、お台場の看板を見かけました。雑賀崎台場と言い、江戸時代の末期に藩命によって設けられたということです。
台場跡
看板を後にして歩を進めると、やがて少し開けた場所に出ます。どうやらここがかつての台場跡のようです。日本各地に外国船に備えて台場が築かれましたが、雑賀崎台場ほど遺構が残っている例は珍しいということです。
万葉の歌に詠まれた浜へ
雑賀崎台場を訪れた後、再び海岸の方へ向かい、しばらくブラブラ歩きました。すると、歌が刻まれた碑が見えてきました。
沖つ島
碑には「沖つ島 荒磯の玉藻 潮干満ちて 隠ろひゆかば 思ほえむかも」と刻まれています。荒磯は「ありそ」、この和歌浦(若浦)のことを意味しているそうです。
この歌は聖武天皇の紀伊国行幸に随従した、山部赤人(やまべのあかひと)が詠んだとされています。歌の意味は何回見てもよく分かりませんでした。
罰金額が曖昧!?
そろそろ病院に戻ろうと、市内(と思われる方向)へ足を運びます。途中で、こんな看板を見つけました。「二階に勝手に上がると五万以上頂く」。
何でしょうか。このかき氷屋さんには、二階に勝手に上がる不届き者がいるのでしょうか。また、五万以上頂くという書き方も少し面白かったです。
和歌山の猫を見て帰途につきました
病院での見舞いを終え、JR和歌山駅から再び関空を目指します。歩いていると、車の下に猫がいました。旅行のたびに猫の写真を撮っているので、すっかり猫のフォルダが充実してしまいました。
和歌山は広い!
今回の旅行では、和歌山市を中心に、あちこちを訪れました。ですが、今回訪れた地域は和歌山県の中でもほんの一部です。南紀白浜や串本、太地町なども訪れてみたくなりました。
やってみよっか?