「祈りの島」の理由とは?旅前に知っておきたい五島列島キリシタンの歴史 image

「祈りの島」の理由とは?旅前に知っておきたい五島列島キリシタンの歴史

2018年7月、世界文化遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」。

16世紀の大航海時代、キリスト教が日本へ伝来。迫害、禁教、弾圧、そして潜伏の時代に突入し、200数十年もの間、密かに信仰を守り続け、祈りを捧げたキリシタンの姿がありました。五島列島にも、既存の社会や宗教と共生しながら、独特な文化や歴史を育んだことを物語る貴重な証拠が残っています。

信仰の自由が認められたとき、祈りの拠点となる「教会」が築かれました。世界文化遺産の構成遺産として、新上五島町の頭ヶ島の集落や奈留島の江上集落、久賀島の集落など、潜伏キリシタンの歴史に関する重要な資産が存在しています。

ここでは、ほんの一部、ちょっぴりディープな五島列島をご紹介します。

島の数は5つじゃない!152もの島々で構成されている五島列島

五島列島の全島は長崎県に属し、日本で一番島の数が多いのが長崎県です。なんとその数は971にも及びます。 その中で五島列島には152の島が属しており、「五島」という名前の島もなければ、島の数は5つにとどまりません。
五島列島は 、中通島(なかどおりじま)、若松島(わかまつじま)、福江島(ふくえじま)、奈留島(なるしま)、久賀島(ひさかじま)という5つの大きな島を中心とする島々 で構成されています。


南には、五島列島の中では1番大きく五島市がある福江島、北には中通島や若松島が属する新上五島町があり、五島列島を大きく分けると、「下五島」と「上五島」となります。
五島列島は江戸時代から多くの潜伏キリシタンが移り住んだ場所。 それぞれの島はもちろん、集落ごとの伝統や文化、景観、そして歴史があります。 そこには、現代を生きる私達の想像を絶する過酷な日々を過ごしていた島民のキリシタン弾圧の歴史、継承されてきた五島の祈りや愛があります。

五島とキリシタンの歴史

対岸に住む信徒のため海を正面に建てられた「堂崎天主堂」- 福江島/五島市

五島列島で最初に建てられた堂崎天主堂。 明治時代に禁教令が解かれた後、五島における宣教活動の拠点として、パリ外国宣教会のマルマン神父によって建てられた仮聖堂を経て、後任のペルー神父により建て替えられ、1907年に完成しました。遠くイタリアからも資材の一部が運び込まれたと言われています。

レンガ造りのその教会は、対岸に住む信徒のため、海を見つめるかのように正面が海に向かっています。かつてのミサでは、開始の合図は対岸まで届き、たくさんの信徒が小舟で教会を訪れていたと言われています。現在は布教から迫害、復活に至るまでの信仰の歴史を伝える資料館となっています。

ゴシック様式の内装も必見。 五島のシンボルである椿をモチーフにしたカラフルなステンドグラスが、光の差し込みを受けて聖堂を輝かせます。 教会を一歩出ると、波のない静かな入り江に透き通った美しい海。そののどかな風景からは、厳しいキリシタン弾圧の歴史があったことが信じがたいものに思えるかもしれません。
キリシタン復活のシンボル的存在として、今もこれからもあり続ける教会です。

久賀島と大浦天主堂 - 長崎市

馬蹄のような形をした久賀島。五島列島といえば椿を思い浮かべる人も多いかと思いますが、その中心となっているのが久賀島です。 ヤブツバキが島中に繁茂し、一部の原生林は長崎県の天然記念物に指定されています。
世界遺産となった久賀島の旧五輪集落。 宿泊できる場所は1軒のみです。
現在は4人しか住んでおらず、その集落にある旧五輪教会堂は、 既存する日本国内最古の部類に入る木造教会 です。

まだキリシタン弾圧下の1865年、長崎の外国人居留地に創建された大浦天主堂を訪れた浦上村の潜伏キリシタン数十名が堂内にいたプティジャン神父に「ワタシノムネ、アナタトオナジ」と囁き信仰を告白。潜伏しながら信仰が受け継がれてきたという奇跡に、神父は大いに感動したといいます。江戸幕府による250年以上続いた弾圧が敷かれた中でのこの劇的な出来事は「信徒発見」と呼ばれ、ヨーロッパの人々に大きな衝撃を与えました。弾圧により、日本には信徒はもういないと考えられていたのです。

信徒発見後、久賀島から始まった「五島崩れ」。潜伏時代に信仰を語り継いできたキリシタンの信仰組織が大規模に摘発され、6帖の牢の中に約200人が閉じ込められ42人が亡くなった「牢屋の窄殉教事件」が起こってしまいます。
そして、西洋諸国からの強い抗議により、明治政府が宗教の自由化へ動き出すこととなります。 最後の崩れが起きた久賀島は今、全国、世界中から信徒が訪れる巡礼の島になっています。

船でしか行けない聖地「キリシタン洞窟」- 若松島/新上五島町

潜伏キリシタンの信仰と弾圧の歴史を色濃く物語る、奥行き50m、高さ5m、幅5mのキリシタン洞窟。 明治時代の初期、「五島崩れ」の際に迫害を避けるため、3家族12人は船でしか行くことのできない険しい断崖の洞窟に隠れました。しかし、朝食を炊く煙を通りかかった漁船に見つけられ、棄教させるための厳しい拷問を受けることとなります。禁教令が解かれる直前の悲しい出来事です。

この洞窟は後に「キリシタンワンド」と呼ばれ、1967年、苦しみに耐え信仰を守り抜いてきた先人たちをしのび、洞窟の入り口に純白の3mのキリスト像と十字架が岩場に立てられました。 今でも毎年11月には、地元カトリック教会の信者を中心に100名ほどが上陸し、ろうそくの明かりでミサを行い祈りを捧げています。

生活を切り詰め、漁で建設費を捻出して建てられた「旧野首教会」- 野崎島小値賀町

野崎島の中心にある旧野首教会はレンガ建築の小さな教会。 聖堂は、現在の新上五島町の出身で、生涯に数多くの教会建築を手掛けた鉄川与助によって初めてレンガ造りでイギリス積みが施された教会でもあります。五島の教会堂が木造からレンガ造りへ移行する時代のことが分かる貴重な建物です。

野崎島では禁教時代、信徒50数人全員が平戸に連行され、改宗を迫られました。しかし、厳しい弾圧を受けながらも信仰を守り続け、子孫に受け継ぎました。

教会の建設費を捻出するため、集落に住むたった17世帯の島民たちが1日の食事を二度にし、貧しい暮らしを続け、キビナゴ漁などで得たお金を貯め、現在のお金に換算すると約3億円にもなる資金をかけて、1908年10月、ついに野首教会が完成。 一つ一つの窓には椿の花をモチーフにしたステンドグラスがはめ込まれており、差し込む光をが机や床を色づかせ、神秘的な空間を演出しています。

時代の流れとともに人口流出が続いた野崎島は現在、ほぼ無人島と化し、廃墟が立ち並びます。教会としての役割に終わりを告げた旧野首教会は今でも、過酷な環境を生き抜いた野崎島の隠れキリシタンたちの祈りの象徴として集落を見守り続けています。

キリシタンの歴史をめぐる旅の始まりは長崎港から

長崎県の五島列島には「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺跡」の構成遺産が点在しています。 その遺跡をたどる旅は長崎港からのスタートがおすすめ。長崎県には約130の教会があり、そのうちの50が五島列島にあります。先に登場した長崎市にある大浦天主堂の正式名称は「日本十六聖殉教者堂」といい、豊臣秀吉の命令によって処刑された26人のキリシタンに捧げられた教会で、潜伏キリシタンの遺跡をめぐる際には欠かすことのできない場所でもあります。

長崎港からジェットフォイルで約1時間30分の五島市福江港、約2時間の新上五島町奈良尾港。のんびりゆっくり、歴史と祈りを刻んできた五島の島々を巡ってみませんか?
島に滞在することで、玄関口の島だけでは見ることのできない景色や奥深い歴史、島民の生活を感じることができるでしょう。 島々の魅力が「もっとここにいたい。」と、旅人を惹きつけて帰さないかもしれません。都会の喧騒を忘れ、島時間に身を任せ、想うがままに五島でのひとときをお楽しみいただけたらと思います。

五島での”教会のある日常”。
現在でも人口の1~2割がカトリック信徒です。同じ日本であることを忘れてしまうほど、五島には歴史が作り出した五島特有の風景が広がっています。
どこか悲しく、でも美しい景色。
五島に一歩踏み出せば、これまでの旅とは違った感情が生まれるかもしれません。

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